フィリピの信徒への手紙は1章12節から、パウロ自身の獄中生活について語っています。ここでパウロが伝えたいことは、冒頭の12節に込められていると受け止めています。12節にはこのように記してあります。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」
「私の身に起こったこと」とはパウロが投獄されたことを指しています。つまり、パウロが捕らえられ牢獄の中に入れられたことが、かえって福音の前進に役立ったと述べています。
この手紙はフィレモンへの手紙、コロサイの信徒への手紙と並んで、「獄中書簡」と言われています。つまり、パウロはこの手紙を牢獄に監禁されている時、執筆しました。
さて、皆様はここで違和感をもたれないでしょうか。パウロが投獄されたことは「福音の前進」に繋がったというのです。「投獄」という、通常であればマイナスとしか考えられない事態が、「前進」というプラスな事柄に繋がるということに違和感を憶えます。牢獄に閉じ込められれば、パウロの使命である宣教に支障が出ることでしょう。それだけでなく、パウロが牢獄に居ることは、周りに良い印象を与えないと考えます。
エフェソ書3章13節で著者は、パウロが牢獄に居ることに対して不安を憶える信徒たちを「あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」と励ましました。このことを踏まえて考えますと、やはり「投獄」とは相手に対してマイナスな印象を持たせ、不安を与えると考えます。また、牢獄の中でキリストを宣べ伝えようとしても、捕らわれている人の話に耳を傾ける者など居るでしょうか。キリストを宣べ伝えることによって投獄されているのですから、キリスト者でない者は警戒するでしょうし、キリスト者であれば次に投獄されるのは自分かもしれないと恐れを感じると考えます。つまり、パウロが牢獄に居ることは、福音の前進ではなく、むしろ「後退」「停滞」なのではないでしょうか。ところが、パウロは12節でしっかりと「前進」していると語っています。では、どのように前進したのか、この点に関して具体的なことが13節以降に記されています。
まずは「わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡」ったことです。パウロが使命としているキリストの福音を宣べ伝えること、またキリストを証ししたことが、投獄されている理由なのだと、兵営全体のみならず、その他の全ての人々に広く認知されました。パウロは、牢獄の中に在ってもなお福音を宣べ伝えるという使命を果たそうと努めていたのかもしれません。牢獄を見張る兵に福音を伝え、キリストを証しすることはできます。そうして人から人へと伝聞されていったと推測します。もしくは、牢獄の中で静かに祈りを捧げ、賛美歌を賛美するパウロの姿に心を動かされた兵が居たのかもしれません。こうして兵営全体にパウロが牢獄に居るのはキリストのためであると知れ渡りました。パウロが捕らわれたのは、キリストについて兵営全体に証しするためであったとパウロは捉えているのではないでしょうか。それによって、キリストについて知る機会がほとんどなかった兵営の人々がキリストを知る機会へと繋がりました。これがパウロの主張する「前進」の具体的理由です。
この具体的理由に視点を置き、ある説教者はこのように語りました。
「13節の『わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡』ったというのは、キリストの力によって知られるようになったということです。おそらく、一人の人間がある宗教のために牢獄に入れられたとしても、通常はそれが評判になることはなかったでしょう。しかし、それが評判になったのは、キリストの力が働いたからだとパウロは言うのです。」冒頭で語りました違和感の答えがここにありました。「投獄」や「獄中」は人々にマイナスな印象を与えるのが一般的ではありますが、そうした印象をパウロ自身の力ではなく、キリストの力によって、覆すことができたと言われています。
このキリストの力の働きはパウロだけでなく、兄弟姉妹にも起こりました。フィリピ書1章14節にはこのように記してあります。「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」これは、福音が「前進」したもう一つの具体的理由です。キリスト者の多くは、パウロの投獄が主にある確信を得ることに繋がり、ますます勇敢にみ言葉を語るようになったとパウロは言います。ここで、パウロの投獄によって、キリスト者の多くがキリストから離れなかったことを意外に感じました。前述しました通り、パウロが投獄されたことは信徒にとって不安を引き起こす要因になると考えます。パウロの身に起こったことが、自分にも起こり得るかもしれないと誰もが憂慮したと推察します。ところが、牢獄の中に在ってもパウロは自分の一切を神にゆだね、キリストの恵みの中で生かされていることを多くの信徒が理解したのでしょう。もともと、フィリピ書は一通の手紙ではなく、いくつかフィリピに送られた手紙が一つの手紙にまとめられたと言われています。先に送った手紙から、パウロの様子を受けとめたと捉えることもできます。また、パウロは獄中に在っても多方面に配慮し、宣教に励む姿から、パウロの堅い信仰心を感じ、キリストによってパウロの信仰が強められていることに多くの信徒が励ましを受けたとも考えられます。こうして、パウロが「捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」のではないでしょうか。一度は揺れ動いた信仰心が、パウロの力強い信仰によって励ましを受け、パウロのように自分自身もキリストに仕えるため、み言葉を語るようになった信徒が増えたのも、「福音の前進」とパウロは捉えているのでしょう。
新型コロナウイルスへの感染が国内で初めて確認されてから、1年以上が経ちました。未だに収束せず、事態はどんどん悪化し不安を憶えます。コロナ禍にあって教会の働きをどのように形成していくか、課題は積み重なるばかりで明確な答えを導き出せない時があります。キリストの僕として、教会奉仕に励みたいと願いつつも、健康と安全を考えると自分が思い描いているように動けない時があります。コロナ禍のキリスト者としての生き方、歩み方はどう整えるべきか、何度も自分に問いかけました。そうした時に神様が指し示してくださいました答えはある説教者の言葉でした。その説教者は、我々は信仰の弱さに嘆くことが多くあり、それは誰でも経験することで、ペトロやパウロもそうした経験をしていたと語りました。そういった中で、パウロもペトロも自分の信仰の弱さを告白しつつ、キリストの支配と恵みによって生かされていることを証ししているというような内容から書き出し、続けてこのように説いています。
「私たちは牢獄に入れられるような目にあわないかもしれません。しかし、どんな状況にあってもキリストの支配のもとに置かれており、自分の生活の一つひとつがキリストの恵みによって支えられているのは、パウロと変わることはないのです。」
この説教者のおっしゃる通り、現代を生きる私たちがキリストを宣べ伝えたからといって牢獄に入れられることはほとんどないと言えるでしょう。しかし、まるで牢獄にいるかのような事態は、どの時代にも起こり得ることだと考えます。現状で言えば、新型コロナウイルスの影響により、人との関わり、外出、仕事を制限されながら生活をせざるを得ないこの状況は、牢獄に監禁され自由のない獄中生活と通ずるものがあります。そういった生活の中で試練に直面すると、自分の信仰の弱さに気付かされます。そうして自分の信仰の弱さを嘆き、憐れみ深い神様に感謝し、その神様の愛とキリストの招きに応えて、自分も何かしなければと焦りを憶えます。けれども、この説教者はそうではないと、焦ることはないと優しく説いています。
パウロの信仰生活はキリストの働きによって「福音の前進」へと繋がりました。それはパウロだけでなく私たちも同じ状況に在る、と先に触れました説教者は説いています。現状は絶体絶命、危機的状況のように見える時も、私たちはキリストの支配の中で生かされ、日々与る恵みに支えられています。キリストの僕としてそれぞれに与っている賜物をもって、神様がみ業のために用いてくださると信じて歩みを深めたいと願います。健康と安全を守りながら、状況に合った礼拝を捧げ、焦ることなく御旨を学び、無理なく信仰を育てる、そうした教会形成、信仰育成が必要であると考えます。この世が暗闇へと突き進んでいるように感じても、み言葉そのものがもっている偉大な力により頼んで歩みを進めることを祈り求めます。事態が悪化する一方である情勢に焦りと不安を憶え、前に進めない時もあります。そうした歩みの中にもキリストによって私たち一人一人の信仰生活が、また教会の働きひとつひとつの事柄が、福音の前進に役立つように、神様は道を備えてくださっていますことを心に留めたいと願います。人との関わりに制限があっても、関係が完全に絶たれてはいません。人や場面に合わせ、少しでも交わりを保ち、この状況をどのようにして乗り切るか、信仰生活の歩みをどう進めていくか、共に模索しながら神様が備えてくださいます道を一歩、一歩前進していきたいと願います。